やや古い話で恐縮だが，講義で取り上げることがあるので・・・
「
脳を巡る怪しい研究成果や根拠の乏しい説、いわゆる「神経神話」を撲滅していこうとする動きが出てきた。」
これは2010年3月の「日本経済新聞」の記事の冒頭である。タイトルは『怪しい「神経神話」と戦う脳科学者』である。
そこで言及された「神経神話（neuromyth）」を含めて，次のような神経神話が今も取りざたされている：
1 私たちの脳は10パーセントしか使われていない
2 脳に関して重要なことはすべて３歳までに決まってしまう
3 幼児期における語学などの早期教育は必要である
4 人には左脳タイプ、右脳タイプというものがある
5 成人の脳は新しい神経細胞をつくらない
6 お酒を飲むと脳の神経細胞が殺される
7 クラシックを聞くと頭が良くなる
8 ゲームをすると脳を刺激させ、脳を若々しく保つことができる
9 男性の脳と女性の脳は違う
10 記憶力は向上させることができる
11 眠っている間も学習することができる
これらは全て「ウソ（myth；根拠のない説）」とみなされているが，
A）命題自体が意味不明か多義的なものがある。
B）科学的結論は仮説であり，その結論＝仮説の信頼性の程度を適切に評価する必要がある。
これら２点は指摘して置きたい。
A）に関して言えば，たとえば，「使われていない」とか「脳に関して重要なこと」「必要である」「殺される」「頭が良くなる」「刺激させ」「若々しく保つ」などの意味が不明である。
９での「脳は違う」という文言の意味も不明である（脳の何が違うのか？ 大きさ？ 相対脳重？ 構造？ 神経結合？ 機能？ 遺伝子発現？ 性ホルモン受容体？）。
「左脳タイプ・右脳タイプ」も意味不明である。右手効きが強い人（左右の利き手の程度は連続的）は主に右手を使うので，その場合，左脳の運動野や体性感覚野を使うことが多くなるが，これを「狭義の左脳タイプ」と言ったら間違いなのか？ もし「右脳と左脳の機能は大きく異なる」を神経神話とする（間違いとする）ならacceptableだが，「タイプ」という言い方によって，意味不明になっている。
また，５の「成人の脳は新しい神経細胞をつくらない」と，６の「お酒を飲むと脳の神経細胞が殺される（おそらく，死ぬの意味だと思われる）」は良い対比をなしている。
「成人の脳は新しい神経細胞をつくらない」といのは神経神話，つまり，間違いであり，「成人の脳は新しい神経細胞をつくる」が正しい，ということになるが，ヒト脳でのアダルトでの神経形成（neurogenesis）に関するin vivo での直接的証拠はない。
Eriksson らの1998年論文がパイオニア的研究として有名だが，この研究を含めて，ヒトでのin vivo adult neurogenesis は技術的制約もあって，未だ確立していない。ただし，in vitroでの証拠はあるし，げっ歯類（マウス，ラットやウサギ）のみならず霊長類でのin vivo adult neurogenesis の証拠はかなりあるので，ヒトでもin vivo adult neurogenesis が起こることはかなり信頼できる結論（＝仮説）である。従って，「成人の脳は新しい神経細胞をつくらない」というのは信頼性の高い神経神話である。
一方，６の「お酒を飲むと脳の神経細胞が殺される（死ぬ）」に関しても，ヒトでの直接的証拠は（やはり技術的制約があるので）実証されていない。ただし，「ethanol-induced neuron death」は動物実験では広く知られており，また，ヒトではアルコールによって脳が萎縮するというデータがかなりある。従って，「お酒を飲むと脳の神経細胞が殺される（死ぬ）」という仮説の信頼性は「成人の脳は新しい神経細胞をつくる」という仮説と同程度かやや低い程度であるとみなせる。しかしながら，こちら（６）は神経神話とされており，５との科学的整合性（e.g., 信頼性の基準に関する整合性）が取れていない。
ついでに言っておくと，５～11 は，その「信頼性の程度」には差があるものの（そして，各命題の明示性を高め，かつ，いくつかの補足をする必要があるものの）概して正しいか，あるいは，「神経神話」と断じる根拠は薄弱である。
端的に言えば「戦う脳科学者」がドンキホーテ的な項目が半数以上を占めると見なす他なく，それらの項目は「神経神話の神話」となっている。
さらに議論すると長くなるのでこの辺で留めて置くが，脳科学的言説のいくつかを（恣意的に？）取り上げて「神経神話」と断じるその脳科学者がこの程度のレベルではドーニモならない。ヤレヤレ。
